思い出には、香りがある。
香りは、思い出を連れてくる。
 
隣に座ったカップルの笑い声をBGMに、ひとりdeランチをしながら、そんなことに想いをめぐらせていた―。

この前、私は渋谷からの帰宅途中、時間調整のために少し長くホームに止まっていた急行電車に運良く乗れた。まもなく発車のアナウンスが流れ、ドアが閉まろうとしたとき、ひとりの男性が駆け込んできた。息を切らせて、少し乱れた髪を整えながら私の隣に座った……その瞬間。ふわっとイイ香りがした。私は思いがけずドキッとした。なぜなら、その男性がまとっていた香水の香りが、元彼と同じ香りだったからである。
201102121301000まさかとは思ったが、何気なさを装って一瞥をくれた自分が少し恥ずかしい。こんなところに元彼がいるわけがない。別に未練があるわけでもないし……。

男性は途中で降りたが、それから電車に揺られた約一時間のあいだ、否応もなく元彼との思い出がフラッシュバックし、なんだか胸の奥底がこそばゆく、ひとりでセンチな気分になってしまった。


*      *      *


あれは、付き合って二度目のデートでのこと。強く印象的なシーンとともに、元彼の香水の香りが私の中に沁み込んだ。

とある展望台から夜景を見ようと、チケットカウンターまで続くエスカレーターに乗っていたとき、反対側の下りエスカレーターに乗る帰り際のカップルが突然、人目も気にせずキスをした。結構な人波の中で、恥ずかしげもなく、いたって自然に交わされた愛のさえずりに、元彼は「かっけーな」と、ひとこと。「うん、素敵だね」と返し、その場は過ぎた。

夜景を満喫し、地上に降りたあと、なんとなく帰りはエスカレーターではなく、ゆるやかな螺旋階段を選んだ。手をつなぎながら私が少し足早に駆け下りようとすると、元彼が「ねぇ」と呼んだので、私は「ん?」と言って振り返った……次の瞬間、キスをされたのである。

「しないと思った?実はあれから、ずっと狙ってたんだよ」

そのときの私は、キスと、元彼の悪戯な笑顔と、かすかに感じた香水の香りに完全に酔いしれ、赤面ノックアウト状態だったと思う。

その香りが好きだと言ったら、次のデートでアトマイザーごとプレゼントしてくれた。それからというもの、私の中で“その香り=元彼”となったのである。

例えるなら、おひさまに当てたフカフカの掛け布団のような、安らぎと温もりを感じる優しい香り。蒸発して、ほとんど香らなくなってしまった空のアトマイザーだけが、今も手元にある。

*          *          *

しかし人間とは、よくできた生き物だと思う。ほのかな香りを感じ、識別し、照合して、過去の記憶をピンポイントで引き出してくるのだ。香りひとつでキュンとなり、香りひとつで思い出を懐かしむ。

人間の、いわゆる“五感”の中で唯一“嗅覚”だけは、『脳の発電所』とか何とか言われる部分にダイレクトに作用するのだそうだ。そのため、好きな香りや美味しいにおいを知覚すると、脳に良い影響を与えてくれるらしい。香りは脳に残る。脳が香りを覚えている。深層心理ですら思い出したこともないような、何年も前に見ていた景色が、鮮やかによみがえる。

食後に頼んだ“はちみつラッシー”の甘美な香りが口の中にふわっと広がり、鼻を抜けて、爽やかな萌葱色の春風に変わった。甘く、淡い、あの日の出来事が、その風に乗ってやってきたようだった。

イイ香りには、何か魅力的なモノコトにつながっているような、不思議な高揚感があるのだ。


hexagon CAFÉ
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eRiKo
えりこ/唄い人、奏で人、ときどきエッセイスト。埼玉県出身、在住。C大学FPS卒。某法律事務所に勤務。恵比寿・渋谷への出没率、高し。カフェ・古着屋・インテリアショップなどで見かける可能性大。黒猫と黒柴と戯れながらの実家暮らし。