震災から1ヶ月、まだまだ3.11以前の生活水準は回復していない。私の勤め先にしても甚大な被害を受けているのだが、これまで感じたことは、兎にも角にもこの国を取り巻く「薄っぺらい」空気でしかない。ある種の気持ち悪さと言い換えられようか。

東北の被災者は、純朴で辛抱強いなどと喧伝する向きがあるが、果たしてそうだろうか。被災地では皆慎ましく、礼儀正しく、略奪は無いなどと報道されているが、事実は違う。現地では、火事場泥棒のような犯罪が起きていることが嫌でも耳に入る。被災家屋やライフラインの止まった家屋に侵入し、金目のものをさらう。ガソリン盗難も後を絶たない。

露骨すぎる本屋

露骨



必要な情報を流さないマスメディア

こういった現実が広く知られないのは、明らかにテレビをはじめとする既存マスメディアの責任だろう。彼らはやたらと美談ばかりを報じる。恐らく現場では悲惨な光景ばかり目に入るから、美談に引き寄せられるのだろうが、現地の「生活者」にそのような情報は必要ない。生存のための情報が欲しいのである。いっそ、民放各社は「計画停波」でもすればどうか。美辞麗句を並べたACの啓蒙CM(ぽぽぽぽ~ん除く)をひたすら流すくらいなら、その方がよほど節電にもなろうというものだ。


では、Twitterは本当に有効だったのか

一方、震災情報や人命救助にTwitterが有効だったなんて話を聞く。実情もわからずに、よく言えたものだ。私自身もPCが壊れ、携帯電話は基地局の倒壊により、復旧まで48時間を要した。コミュニケーションツールは皆無だったのである。震災直後、電話は通話に手間取ったが、Twitterは機能していたということが論旨の背景にあるようだが、言っていることがもっともらしい分、始末に負えない。はっきり言って過大評価しすぎである。最初の3日間に限って言えば、被災地でもっとも有効に機能したツールは口コミか手書きの掲示板だった。所詮は震度5程度の経験でしか考えられない「中央」発、蚊帳の外の言説でしかない。


「ひとつになろう」「がんばろう○○」というファンタジー

絆だの、つながっているだのと、テレパシーのようなまやかしを信じているのは『中央』の人間だけである。被災地にファンタジーはない。人と人とが対面しあい、対話することによってしか経験を共有できない「現実」なのだ。それを見ようともせず、「みんな」とか「ひとつ」といったフレーズでその気になれる構造ができてしまっている。非常に危うい状況である。そこに生まれているのは、イマジネーションが欠如した的外れなコミュニケーションでしかない。別に物資を送ること、金を送ること、人を送ることを否定するわけではないが、直接被災していない方々には、とにかく今ある日常を送ってほしい。その上で、静かにかつ腰を据えた支援を望みたいというのが「現場」の本音だ。

何度も言おう。頑張ろう!○○、あなたは一人じゃない等―全く空虚である。頑張るための基盤を奪われているのが今の東北なのだ。自分は安全な場所にいて、まるで被災者の味方のような顔をして「余震も放射能も危険ではない」と言い張る人々がもっとも冷酷だと思うのは、私だけだろうか。

結局、人間は五感で感じた事象しか「理解」できないのである。自戒を込めて筆を置きたい。


てぃーる
てぃーる/静岡県出身、仙台市在住。C大卒。全国最大のぽっぽやに勤務。みちのくも在勤7年目。20代が東北で大半を過ごすことになるとは思いもよらなんだ枯れはじめの三十路前!ただし無駄にポジティブ!