特集5アイコン05締めのタイトルも城繁幸さんへのオマージュになってしまいましたが、本誌は「20代のリストラ」に限り、通常扱われている、労基署に訴えるなどのリストラ対処法が必ずしも適切ではないということを最後に提案します。その秘密は、あなた自身の可能性にありました。


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山一證券、最後の社長の偉大さ

「みんな私ら(経営陣)が悪いんであって、社員は悪くありませんから!どうか社員に応援をしてやってください。優秀な社員がたくさんいます、よろしくお願い申し上げます、私達が悪いんです。社員は悪くございません…!」

1997年11月24日。山一證券の自主廃業が決まったその日、東京証券取引所で記者会見した野澤正平社長(当時)は、2時間にも渡る会見の終了間際、突如立ち上がり、涙を流しながらこのように絶叫し、何度も頭を下げて社員の再雇用を訴えました。男泣きに泣きながら社員をかばったことがテレビで大々的に放送され注目されたことで、当時の金融危機を象徴するシーンとして今も語り継がれています。

当時まだ高校生だった自分でさえ、山一證券の自主廃業がこの人のせいでないことは一目瞭然でした。野澤氏の社長就任後、たった3ヶ月後の出来事だったからです。この会見が経営者としていかに偉大で尊敬されるべきものであったかは、その後さまざまな企業で不祥事が起こった際、自らの保身のためだけに形式的に頭を下げ続けた愚かな経営者たちが教えてくれることになります。

事実、この会見が山一の一般社員に対する世間の同情を大いに集める結果となり、その後、関連グループ会社含めた社員1万人全員が応じても余りあるほどの求人が殺到、同社社員の再就職に多大な貢献を果たしました。また、それはその年、山一證券に内定していた新卒学生400人も同様で、自主廃業の業務に追われる傍ら、野澤氏が自ら社員の履歴書を持って求職活動をしている様子が、後日談としてTVで特集されたりもしていました。(なお、当の野澤氏はマスコミ嫌いで知られています)

僕はこの実話を思い出す度、当時の苦難こそあれ、山一の社員は幸せだったに違いないと思わずにいられません。

時を経て、2008年のリーマン・ショックと当時の金融危機を比較するニュースも出てきましたが、当時と最も異なるのはこうした経営者の人間的な「質」だったのではないでしょうか。今のような有様では、もうこのような「与えられた責任を全うする」叩き上げの経営者は出てこないような気すらしてくるのです。



「20代リストラ」は就職ミスマッチの末路

今回特集した「20代リストラ」の現実と、「ネオ・ブラック企業」の台頭。これらの動きは望む望まないに関わらず、今後加速すると考えられます。

正社員の既得権保護はすでに限界ですし、終身雇用・年功序列という、世界的に見れば特異な文化の中で成長してきた日本企業といえども、グローバリズムの中でその独自性が立ち行かなくなって来ているのは周知の事実です。経済という土俵で戦う以上、企業の人事制度も世界基準に合わせていかなければ、さすがにこれからは勝負にならないでしょう。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」のプライドを今こそかなぐり捨て、明治維新の時のように、他国のいいところは素直に認めて取り入れていかなければ、国家百年の計など望むべくもありません。

…というような大局的な論調が一般的で、実はこれまでほとんど、この状況下でクビを宣告された20代が多数いることなど、ほとんど話題にすらなりませんでした。当事者が声を上げないことをいいことに―。

この特集はそんな、押し黙ったまま会社を去った、同年代のあなたの「無念」のために作ったつもりです。だからこそ、最後に言わせて下さい。

その会社にあなたがどういう思いを持って入社したか、本誌は知りません。ただ、いずれにせよ、辞めざるを得なかったことは、無念だったに違いないと思うのです。それまでに相当辛いことがあったことも、大体分かっているつもりです。また、辞めてからも「本当に辞めて良かったのか?」「色々理由を付けて、ただ単に逃げ出しただけじゃないのか?」「あそこでもう少し踏ん張って会社と闘っておけば、ひょっとしたら糸口が見えたのではないか?」と、これからも一生答えが出ることのない自問自答を繰り返し、苦しんでいることも…察して余りあるほどです。

でも、あえて言います。

もし前の会社に残ったとして、もしくは今の会社に残るとして、会社と抗争を続けなければいけないほど、その会社はあなたにとって残る価値のある組織なのでしょうか?

そもそも、40代50代のリストラをろくにすることもなく、法的知識も浅い20代新人を一方的に辞めさせようとしてくる程度の低い会社なのです。また何より、20代を切らなければ生き残れないくらい、未来に見込みのない会社なのです。

先ほどのキャリアコンサルタントKさんのインタビューの中でも出てきた話ですが、「歯を食いしばって頑張る」ことはもちろん大切なことです。でも、それは「顧客との交渉がうまくいかない」とか「契約が取れないから企画を何回も見直す」とか…もっと具体的な仕事の中身の話だったはずです。それが、いつの間にか上司からのパワハラや嫌がらせに耐えることを「歯を食いしばって頑張る」ことになってしまってはいないでしょうか?

断言します。

あなたが新卒時に思い描いていた「頑張る」はそんな低次元な世界の話ではなかったはずです!

しかもその「頑張り」は残念なことに、絶対あなたの将来のためになりません。そのうち「おれがダメだから、仕事ができないから…」と自分自身を攻めるようになり、いざという時に元々あった実力を発揮できない腐ったオヤジになってしまいます。会社に、そう思い込まされることになります。

環境には元来、人間一人の考え方を変えるくらいの力があるものなのです。小象の頃から前足を鎖につながれていた象が、大人になってからもその小さな鎖を引き千切ろうとしないように…。

あなたが「それでも会社が好きだから」と言うのなら、止めはしません。労働基準監督署を味方につけて、存分に会社と闘うべきだと思います。常にICレコーダーを胸ポケットに忍ばせて、上司を追放すると同時に自分が生き残るチャンスを粘り強く伺うべきです。

でも本誌は正直、その闘い方をおススメしません。それは、もう先がない40代・50代のオッサンの闘い方な気がしてならないのです。

少々暗い発想かも知れませんが、この時代、リストラ対象となった20代に本誌がプッシュしたい闘い方はズバリ「新しい職場で活躍して、いつか見返す。自分を切ったことを、手放したことを、後悔させるにはどうしたらいいか、真剣に考える」これしかありません!

結局、「20代リストラ」は新卒時の就職ミスマッチの産物なのです。単純に仕事の実績なのか、人間関係の不調なのかは分かりませんが…いずれにせよ、職場環境とそりが合わなかったことが招いた悲劇だと結論付けていいと思います。それはきっと会社とあなた双方にとって不幸な出来事だったに違いありません。

しかし、20代の今なら、転職で人生をやり直すこともできるのです。この国の「新卒至上主義」も徐々にほころびが見え始めています。その可能性は決してバカにはできませんよ!

転職には当然リスクもあります。次の職場では上手くいくという保証もありません。

でも、もしあなたが「自分の可能性を信じられるなら」…打って出ることを本誌は応援します。

正直、これから30年以上その会社で「飼い殺し」にされるのと、どちらが幸せかは分からないと思うからです。

決断できない人間に引導を渡すのが、滅び行く会社の最後の果たすべき役割かもしれません。また、今回の出来事は、会社から「人生をやり直すきっかけを与えられた」と前向きに捉えることもできます。まだ、あなたはそういう年齢なのです。自信を持っていいのです。

新しい職場で、元来あなたが持っている尊い能力を発揮できたとしたら、きっともう二度とこんな目には遭わないで済むと思います。そのくらい稀な、辛い経験だったと認めるべきです。そして自分の能力を社会に還元する歓びを仕事で得られた時、あなたの前会社や前上司への「見返し方」は、辞めた当初とは違う形になっていることを期待しています。その形がどう変わっていくのか、そしていつか本当に「見返す」日が来た時―もし許されるなら、本誌にその挑戦の軌跡を取材させて下さい。

ちなみに、こういうことではないですよ!!



3年で辞めさせられた若者はどこへ行ったのか

最後に、「3年で辞めさせられた若者はどこへ行ったのか」を示す一例として、今年に入ってようやく報道された読売新聞のニュースを紹介します。

この特集が、20代にしてリストラの憂き目に遭った、すべての同年代サラリーマンが明日を生きる活力になることを願って。


日本で「不要」と言われた。そんな自分を求めてくれる人たちが目の前にいる。

ベトナムの首都ハノイから南に約550キロ離れた地方都市・フエ。市街地を抜け、赤褐色のでこぼこ道を上っていくと、簡素な校舎が見えてくる。そこが、川村泰裕(26)の職場だ。

「皆さん、復唱してください。『明日は、晴れますか』」

川村に続き、約20人のベトナム人学生の日本語が教室に響く。アシタハ、ハレマスカ……。

川村は、国立フエ外国語大の教壇に立つ日本語講師。この地にたどり着いて、9か月がたつ。


*      *      *


「辞めてくれないか」

呼び出された会議室。部長から告げられた一言に目の前が真っ暗になった。

2008年に早稲田大を卒業。就職した東京の機械メーカーは直後のリーマンショックでいきなり傾いた。そんな中でも営業ノルマをこなそうと、くたくたになるまで得意先回りを続けてきたつもりだった。

入社1年半でのリストラ。いくら理由をたずねても部長は言葉を濁すだけだった。会議室を出た瞬間、悔しさで体が震えた。

「こっちで働かないか」

ベトナムにいた知人から誘われたのは、その頃だった。全く知らない土地で、いったい何ができるのか。だが、若者が簡単に切り捨てられる国に未来はあるのか――。日本中を覆っていた閉塞感が、迷う背中をぐっと押した。

ところが、ベトナムで知ったのは、日本の別の顔だった。最初に頼まれたのは、現地の大学生たちに3か月間、日本語を教えるボランティア。20歳前後の学生たちは、川村のもとに駆け寄っては、「日本が大好き。勉強して、いつか日本の会社で働きたい」と言った。

ベトナムから見れば、1人当たりの国内総生産(GDP)は30倍以上。蛇口をひねれば飲める水道水を整備したのも、国際協力機構(JICA)と横浜市水道局だと現地の人から聞かされた。日本は沈みゆく船なんだ。そう悟ったつもりなのに、ここでは尊敬と羨望で仰ぎ見られる国だった。

日本語を学びたい。でも、教えてくれる日本人がほとんどいない。学生たちの真っすぐな目に、心動かされる自分がいた。しばらく後、川村のことを伝え聞いた外国語大の責任者に頼まれた。「正式に講師として働いてくれないか。あなたの力を貸してほしい」

住まいは大学の学生寮。日本語の観光ガイド育成の仕事などと合わせても、月2万円ほど。それでも現地の物価なら十分、生活できる。日本は雨でも、晴れている場所はどこかにある。

日々の出来事をブログでつづる。それを見て「何十社受けても内定がもらえない……」と、思い詰めた顔で日本からわざわざ訪ねてきた学生もいた。だから、雇用不安におびえる同世代に、こんなメッセージを送る。

「世界には、日本人だからこそ働ける場所がまだまだある」(敬称略)


―――2011年1月3日/読売新聞(一部抜粋)


3年で辞めた若者はどこへ行ったのか「若者はかわいそう」論のウソ