こないだ春樹ちゃんのカタルーニャ演説をYoutubeで見てて、そういえば夏樹ちゃんたら今頃何してるのかしらと思って久々にHP(Cafe Impala)をのぞいたら、9.11のときみたく毎日メルマガはやってなかったけど、ちゃんと3.11コーナーができてるじゃないの。

春樹ちゃんが国外でがんばって発言しててそれはとても良いことだけど、春樹ちゃんばっかり注目されてたら夏樹ちゃんがかわいそうだからここでこっそり宣伝しておくわ。



といっても、

ぼくは「なじらない」と「あおらない」を当面の方針とした。
政府や東電に対してみんな言いたいことはたくさんあるだろう。しかし現場にいるのは彼らであるし、不器用で混乱しているように見えても今は彼らに任せておくしかない。事前に彼らを選んでおいたのは我々だから。
―――2011年4月2日/朝日新聞

と書くだけあって時事的な文章はあまりありません。かわりに、21年前(!)に書いた「核と暮らす日々」の抜粋、原発施設を訪れたときの文章を掲載しています。


制御と遮蔽が原子力産業全体の基本姿勢である。遮蔽について実に正直に語ってある文書をぼくは発電所で貰った。(略)「安全への配慮」という項目には「放射線の封じ込め」と題して五つの壁が放射性物質の周囲にあることを強調している。(略)句読点まで含めて短い文章の中で、危険性は「固い」、「丈夫な」、「密封」、「がんじょうな」、「気密性の高い」、「厚い」、「しゃへい」、という言葉の羅列によって文字通り封じ込められていたのである。 (だいぶ略)この文書がいかにも雄弁に語っているのは、発電所が外の人々に向かってそういうアピールをしなければならないと考えていることだけではないのだろうか。




チェルノブイリの大事故の後、各国の原子力関係者は異口同音にわれわれはあれほど愚かではない、わが国ではあんな事故はおこるはずがないと言い張った。(略)だが、事故というものの実態は千差万別であり、そこに至る道もさまざまである。日本ではチェルノブイリ型の事故は起こらないと主張するのは、日本にはゴルバチョフ型の指導者は登場しないと断言するのと同じくらい正しく、それゆえにナンセンスだ。(略)人はおのれの愚かさに比例するサイズの事故を起こすという法則があるわけではないのだ。




原子力発電を啓蒙するためのパンフレットの類には安全性と並んで経済性が大きく謳ってある。しかし、ちょっと考えてみればこの二つの利点が相互に矛盾していることは明らかである。ほんの小さな異常でもすぐに原子炉を停めてしまうという方針で運営すれば、そこは絶対に安全な発電所ということになるだろう。しかしそれを実行していては年間の稼働率はひたすら低くなり、発電コストはいくらでも上がる。




万一の事故が一つの地方をそっくり廃墟にしてしまい、後遺症が何世代にもわたって残るというほどの大きな危険性をはらんだエネルギー革命は今までなかった。(略)パワーは幾何学級数として増えるのに、それをコントロールする能力の方は算術級数としてしか増加しない。(略)コントロールの方は結局は人間の性格に大きく依存するものだから、それをある目的に向けてふさわしいように変えてゆくことはできない。だからパワーとコントロールの差は大きくなるばかりだ。(略)このペシミスティックな決定論のどこに誤りがあるのだろう?



このほか、原子炉のしくみとか福島第二発電所でおこった事故の話とかが念入りに書いてあって、その辺さすが理系作家です。

ちなみに、ここには掲載されていない「核と暮らす日々」(続き)にはこんな一文も。


原子力発電所の構内を見せてもらっている時、宅配便の小さな車が入ってきた。どこでも見かける、誰もが見逃す、緑色のバン。その車は原子炉建屋のすぐ裏の道をなにげなく走って、その先の建物の前に停まった。(略)あの車は構内に入れてもらえるのだとぼくは思った。運転手は入り口の守衛と顔見知りなのだろうか。この先を、冒険小説を読みすぎたファンの妄想とした上で続けてみよう。ある日、いつもの運転手が病気だと言って違う顔の誰かが来る。――



全文は文春文庫『楽しい終末』所収です。この連載を書いた後、夏樹ちゃんは「出口なし」状態で、7年間長編小説が書けなくなりました。で、この本はいま版元品切れ(泣)。なにさ、春樹ちゃんのはたくさん本屋さんに置いてあるのに。




アイガー・パンプキン号
あいがー・ぱんぷきんごう/カシオペア校歌にセ○ウムさん、さかのぼればイケメン武将隊に減税、本筋を外して全国にアピールする愛知県生まれ。煙が外に出ないように、扉はしっかり閉めてね!