「今で言ったら、東南アジアの田舎の街並みと全く同じだよ。バスは窓が無くて、もちろんブザーなんて無くて、チンチンって紐引っ張って鳴らして止めたりな。野菜なんかでもさ、ポンドでまだ売ってたんだ。単位も一斤、二斤…とか、パンみたいに。日本円で値札が付いたのは、ダイエーが那覇に進出してからだよ。それまでは、そもそも値札がなかった」

サンゴの海/目崎茂和

『サンゴ礁学者』の目崎茂和

―――川の研究で、はじめて本土復帰間もない沖縄に足を踏み入れた先生が、いよいよ琉球大学に赴任されたのが1975年。山崎豊子の『運命の人』が最近ドラマ化されましたが、沖縄返還直後という時代背景から考えると、相当混沌とした学問的・政治的状況だったと思うんです。当時の研究にも何かしらの影響があったんでしょうか?

目崎:そりゃ、ものすごく!今の沖縄とは全然違うからな。今で言ったら、東南アジアの田舎の街並みと全く同じだよ。バスは窓が無くて、もちろんブザーなんて無くて、チンチンって紐引っ張って鳴らして止めたりな。

―――舗装もされてないんですか?

目崎:されてない。あの当時、うちのカミさんと行けて本当に良かったなぁって思うよ。その年の4月20日に式を挙げた後にさ、新婚旅行で伊勢神宮から京都のお寺を回って、ゴールデンウィーク明けてから沖縄に行けたわけだから、まさに海外旅行と同じじゃん。だって買い物するにも言葉が通じないんだもんな。

―――方言が相当強かったんですね。

目崎:そう、今より全然。それに野菜なんかでもさ、ポンドでまだ売ってたんだ。単位も一斤、二斤…とか、パンみたいに。日本円で値札が付いたのは、ダイエーが那覇に進出してからだよ。それまでは、そもそも値札がなかった。刺身だって、『刺身屋』って看板はあるんだけど、ただ魚が並んでるだけ。そこでさばいてくれるんだけど、それ以外何も置いてないから刺身のツマは無いしな(笑)。

―――まさに混沌状態…。

目崎:それとか、この辺りで高く売ってる観葉植物なんて、沖縄じゃみんな雑草だから。うちのカミさんなんて、喜んで処分されたのを拾ってたよ。

―――じゃあ、例えばシュロチクなんかも普通に生えてるんですか?

目崎:うん。虎の尾みたいなの、あるじゃん?あんなの増えすぎて困るから、みんな切って捨ててた(笑)。沖縄だと、挿しておけばそのまま根っこが生えてくるからな。

―――挿し木できちゃうんですか?

目崎:もう、全部。面白い世界だったなぁ。

―――そんな状況の中で、サンゴ礁の研究を始められたきっかけは何だったんでしょうか?

目崎:さっきの川の話につながるんだけど、琉球大学に赴任する2年前に初めて沖縄に行って、川の研究と同時に、サンゴ礁を泳いで見てたんだよな。本土復帰の翌年かな?それで赴任が決まった当時、日本でサンゴ礁を研究していたのは2~3人しかいなかったの。だからおれがやればすぐに一番になれるなって(笑)。それだけの話。

―――最初からトップ狙いだった(笑)。

目崎:あったりめーだよ。結局おれは琉球大学の連中にさ、自分の目の前に広がっているものについては何も教わってないわけだよ。漁師のオヤジから聞くことはあってもさ。まずは、それが学問的にどういう意味があるのかっていうことを教えてあげる。だから琉球大学行って、一年目から沖縄の島の話とかしてた。全部学生と一緒になって、島を歩きながら授業のプログラムを自分で作っていったんだよ。

―――何にも無いゼロベースから、「じゃあ研究しようか」「授業しようか」と。

目崎:そう。だから誰にも習っていない。フリーダム。研究しながら、分かったことをすぐ授業にするようなイメージだよ。もちろん本はたくさん読んでたけどな。学生たちは誰もサンゴ礁の話を聞いたことなんてないし、当時の琉球大学は9割が地元の先生だったからな。外から入ってきた研究者は1割しかいなかったの。復帰後に、ようやく本土から先生を招くようになったから。

―――そうした少数の本土出身者だったということで、特に先生みたいな方だと苦労されることも多かったんじゃないかと…。

目崎:うん、だから偉い人…偉い先生ほど孤独だから親身になってくれたよな。おれは本当に幸せなことに、琉球大学に行ったらまた別の恩師が何人もできたわけだよ。例えばヒマラヤに連れて行ってくれた南極観測隊長の木崎甲子郎。今は絵描きになってる。そうやって、恩師を持つとね、人生の先輩たちがどんな晩年を送っているのかなんてことがリアルに見えてくるわけじゃん。自分がそのくらいの年齢になった時に、みんな思い出すわけ。あの人は自分くらいの時、ああだったってな。そうすると、理想とは言わないまでも、「ああいう風でいたいなぁ」ってね。そういう人をどれだけ見つけられるかだよ。なかなか追いつくまではいかないけどさ。(続く