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関ヶ原の戦いに先だって、東軍の大将・徳川家康は自軍の諸大名全員を招集し、軍議を取り行っています。これが後に有名な「小山評定」です。この天下分け目の戦いに際し、家康は味方の大名小名たちにある種の不安を感じていました。というのも、これら諸侯の多数は元はといえば西軍、旧豊臣秀吉側の出身でしたし、中には秀吉の子飼いとも言える大名もいたからなのです。

石田三成に反旗をひるがえす形で”成り行き上”結束した集団であって、いついかなる時に寝返るか分かったものではありません。しかも悪いことに、諸侯の妻子たちはそのほとんどが三成支配下の大阪に暮らしており、三成が監視の目を光らせているため身動きもとれません。家康の元を離れる輩も何名かは出るものと思われました。

このように複雑な背景を内に孕む評定の中で、山内一豊は諸大名の心を一つにする決定的な言葉を発します。それは当時の常識では考えられない、衝撃的な内容でした。

「徳川殿のお旗本衆におあずけ申す。たったいまお空け申すゆえ、どなたか人をおきめくださりませぬか」

「ほう」家康は目のさめる顔をした。古来、自分の城を他家にあずけて出陣するなどということは、あったためしがない。

「対馬守どの、もう一度おきかせくだされ」

「掛川の城、知行地いっさいをおあずけ申すということでござる。城は多年たくわえました兵糧もとぼしくはござりませぬ。これも存分におつかいくださりますように。―さらには」と、伊右衛門(※)は言いかさねた。「城の内外に住んでおります家来どもの妻子のことでござる。これは三河古田の池田輝政どのがご大身でありますゆえ、その城下へ仮住いさせとうござる」

これには家康もおどろいた。城だけでなく侍屋敷から足軽の長屋にいたるまでことごとく空き家にするというのである。要するに掛川城と六万石の領地を自分にくれるということであった。

(※)伊右衛門:山内一豊の俗称

この前代未聞の発言に家康を始め、周囲の諸大名はど肝を抜かれました。一豊に遅れまじと彼らは次々と城空け渡しを言い出しました。ここに家康は、大いくさを目前に労せずして約百万石の領地を一瞬にして手に入れてしまったのです。

山内一豊は、能力的にも人柄的にも突出した点は全くないと言っていい、絵に描いたような「凡庸な」武将でした。これについては司馬遼太郎ですら「山内一豊はあまりにもエピソードに乏しく、凡庸なものだから信長、秀吉、家康といった歴史のスターの方へ、ついつい筆が逸れてしまう…」といった趣旨の発言をしています。

しかし、関ヶ原に勝利した家康はのちに当時を振り返り、「あの言葉が歴史を変えてしまった」と一豊を非常に高く評価することになります。山内一豊が歴史上の山内一豊になり得たのは、土佐二十四万石の山内一豊が誕生した所以は、まさにこの言葉にあったのです。

一塊の小名が関ヶ原の軍議の席上で啖呵を切ることなど、当時としてはまったく不可能でした。しかし、山内一豊は「肚(はら)」が据わっていたからこそ一世一代の大博打も打つことができ、そして勝つことができたと言えるのではないでしょうか。

私が肚を鍛えるべしと考える理由もここにあります。ここぞという時にものをいうのは決して知識などではなく、肚(はら)の力なのです。ですからリーダーは普段から肚を鍛えておきましょう。私たちにもいつ山内一豊のようなドラマが訪れるか分かりません。

不破利晴
ふわとしはる/“言葉を話す動物”としての「ディスカッション」を求める、”文筆家志望”の会社員(システムエンジニア)。とはいえ、”IT”にはあまり明るくありません。ブログ「格闘する21世紀アポリア