
このような現象は、神奈川県と横浜、愛知県と名古屋などにもあるでしょうが、特に京都というまちではその違いを実感させられることが多いように思います。その典型例として、京都の旧市街にある独特の地名表現があげられます。
本誌は2010年創刊。以後一貫して、全ての楽しかるべき男たちの日常に風穴をあけるリアルスタイル情報をお送りしてきました。それは異端者の悲壮感漂う絶望的な闘いの記録ではなく、むしろ一介の賃労者の立ち位置から価値紊乱の栄光に身を投じるという圧倒的悦楽の産物―。
生来からのエピクロス主義を編集の礎にしながら、ロマンチシズムとカタルシスに生きる全ての男たちに秘められた「たった一人の熱狂」に加担せんと意気込む本誌に、今後もご期待ください。
こばよし こばよし/京都府宇治市で育つ。都内の大学院卒業後、現在京都府内で勤める。京都出身であるが、京都市内の育ちではなく、厳密な意味で「京都人」ではない。そのため京都への思いは複雑らしい。 |
![]() 北は北大路通というのが多数派でしたが、なかには今出川通だという強者もいました。今出川だとするなら、同志社大学すら京都ではないことになってしまうのですが…。 <西> 西は四条通より北は西大路通り、南は千本通だという回答が多かったです。そして口を揃えて出てくる単語が「御土居」という言葉。豊臣秀吉が京都を囲むため作った土塁のことですが、これが今でも西の境界のイメージとなっているようです。 <南> 南は、九条通…つまり京都駅の南までが意識としてあるようなのですが、線路があることもあり、京都駅までといったところでしょうか。 <東> 東は東山区が入るよう東大路通という回答が多かったです。しかし、他の三方向は室町時代からの「京」の範囲とだいたい重なる一方、東だけはその範囲より広がっています。本来、秀吉の時代以来「京」の東の端は今の寺町通、あるいは新京極あたりが東の端=東京極だったわけで、つまり鴨川より東は京の外でした。事実、今の京都大学辺りの白川の人は、川を渡ることを「京いく」と言ったそうだ。そうなると東の端は広がっているわけですが、今の東山の発展を考えるといれて然り、という意見が多かったです。たしかに、京都の写真でよく出てくるのは間違いなくこの東山です。 |
こばよし こばよし/京都府宇治市で育つ。都内の大学院卒業後、現在京都府内で勤める。京都出身であるが、京都市内の育ちではなく、厳密な意味で「京都人」ではない。そのため京都への思いは複雑らしい。 |