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東日本大震災から1年。
都内に住んでいて、仕事場も自転車圏内だった私は、今思えば本当に恵まれていました。友人たちの「電車が動かない」というつぶやきを、帰宅困難な状況を、ネットの片隅から確認しては、祈るような気持ちで安否を書き込んだりしていたことが、つい昨日のように思い出されます。

その後スーパーからは生活用品が消え、家族分の食材が4個欲しいのに、数制限があって買うことを諦めたりする日々が続きました。それはそれで生活不安はありましたが、これもあくまで東京近辺の話。津波の被害にあった東北の惨状を考えれば、いつしか多少の環境変化は取るに足らないことだと思うようになりました。

こんな私でも被災地に何か出来るかもしれない―。

ある日、意を決して、それまで腰まで伸ばしていた髪を、肩にも触れないくらいに短くしました。上司に震災ボランティアに入る意気込みを示すためです。

結局、その意気込みは課長の一言で却下されてしまうのですが、確かに実際、現地に行って私に何が出来たのかは判らないし、一時の情熱(?)だけで現地に行かなくて良かったんじゃないかと今は思っています。

決して褒められた態度ではないかもしれませんが…良くも悪くも、私のこの感覚こそ、ごく普通に東京で暮らす大多数のリアルな“震災観”であるような気がしてなりません。



相談員として、原発被災地から避難してきた女性を担当した時のことです。

彼女の住んでいる町が避難区域に指定され、認知症を患った母親と娘2人で、父親の暮らす東京の家に“疎開”することになったというのです。夫は仕事のため、現地に残ることに。

認知症の母親は、数年前に父親と離婚をしていたので、戸籍上は他人。同居することで、様々な問題が出るのは当たり前の状況でした。そんな中で、相談と支援の方法を考えることになったのです。

被災地支援のための制度が何も決まらないままの状態で、行政との調整が中心の仕事。正直骨が折れました。

原発の状況は不安定で、いつ帰れるかも分からない。かと思えば、帰れなかったはずの自宅へ急に一時帰宅が決まったり、娘2人に放射能甲状腺検査が入ったり、その間にも母親が徘徊をして近所を捜し歩いたり…。何かが起こる度に話を聞いていました。

半年くらいが過ぎた頃、近所の郵便局で被災地募金をしている夫婦を見かけた時、涙が出て来て、彼女は思わずその夫婦に声を掛けそうになったといいます。笑いながら「でもね、やっぱり声は掛けられなかったんだよね」。

実はその時の話を新聞の投稿欄に出したら、取り上げてくれて…と、嬉しそうにその切り抜きを見せてくれました。

彼女にも1年を振り返る時期が来ているのでしょうか。先日、震災当日の話を聞く機会がありました。

少し前から、大地震が来たら怖いね…と、小さい地震から不安がっていたそうです。そして、突然の大きな揺れ―玄関を出ると道路は地割れを起こしていました。

荒れた道を、下の娘が通う幼稚園に走る。「正直、あまり覚えて居ないのよねー」

無我夢中の状況は、話を聞いたくらいでは想像出来るはずもなく、私はただただ、うなずくだけでした。

同居生活は、父親との口喧嘩から、食器や椅子が飛び交う大喧嘩に発展したことも。「きっとストレスが溜まっていたんだろうね、お互いにねぇ」

夫の住む福島へ帰ることも考えられていたご様子でしたが、上の娘の中学生活が安定していることと、下の娘の小学校入学を控えて準備も出来たとのことで、私の相談員としての仕事も、まだまだ続きそうです。相談者の不安を完全に取り除くことは到底出来ないかも知れませんが、この家族との出来事を通して、被災者が弱者なのだということを、あらためて“自分事”として実感することができました。

今回は相談だけではない“支援員”としての仕事で、少しでも彼女のお役に立てれば―と思っています。

yuko
ゆこ/福祉事務所の相談員。ネットゲーム歴○○年?アニヲタの長女と、ボカロ狂の次女、それに自己厨の旦那の4人家族+猫1匹。仕事と家庭はそれなりに両立できているんじゃないかと。最近の絆ブームはなんかイヤ。
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